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【SpecialTheme1 鉄②】<過去>2度の失敗 ~時代の変化と経営の失敗

*この記事は、SpecialTheme1 鉄 Part2です (Part1Part3Part4Part5)

 

<過去>2度の失敗

日本初の洋式高炉での連続出銑(しゅっせん)に成功した釜石の製鉄。
しかし、その後の歴史は成功ばかりではなく、むしろ多くの”失敗”がありました。
今回は、その中でも特に印象的な“2つの失敗”のお話です。

●お話/釜石市教育委員会 生涯学習文化課 森一欽(かずよし)さん

 

時代の変化と経営の失敗~失った販路、迫られる変化

1858年大橋高炉にてに成功しますが、同年主要な出荷先であった水戸藩の反射炉が閉鎖となり、早々に生産した鉄の販路を失います。この窮地に対し、まず取り組んだのがブランド化です。

「釜石の鉄の価値を高めるために、刀や鉄瓶を作ったり、鉄を幕府に献上したりします。刀は、当時江戸で名工と呼ばれた石堂是一(いしどうこれかず)らに頼んで作ってもらいました。

また一方で、ブランド化とは逆に、少し安く、でも高品質であると売り込む戦略も行います。結果として、釜石の鉄を仙台や江戸に大量に流通させることに成功し、石巻鋳銭場(いせんば)*にも、多くの鉄を出荷しました」

しかし3年後、状況が変化します。1863年仙台藩にも高炉ができ、上得意の顧客であった石巻鋳銭場への出荷が終わります。

「そこで釜石の人が取った戦略は、自分たちで貨幣をつくることでした。大迫(おおはざま)、栗林、のちに橋野にでも銭座*を開設しますが、時に1868(慶応4)年。幕府最後の年です。明治時代になれば、当然江戸のお金は必要なく、製造禁止となります。しかし、流通は続き、密造が始まりました。結局1871年密造が見つかり、橋野一番、二番高炉は廃業となります」

その後、大橋高炉は官営化。橋野の高炉は経営者が変わりながら細々と続き、1894年、三番高炉も操業を終了しました。

日本初の洋式高炉による出銑という華々しいスタートをきった釜石の製鉄は、時代の変化にさらされ、常に変化を迫られていたのです。

*鋳銭場、銭座・・・貨幣を作る場所

 

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↑ 今も鳥居が残る橋野高炉跡の山神社

 

*SpecialTheme1 鉄の記事はこちら